雲祥院の歴史

第二次世界大戦終戦前夜
昭和二十年八月十四日
土崎の日本石油がアメリカ軍のB29の爆撃にあい、雲祥院は県内でただ一ヶ寺の戦災寺院となりました。


首無し地蔵

今も当院に残る四人のお地蔵さまは、爆撃の破片で首が削ぎ取られ無くなっています。『首無し地蔵』として学校の授業にも取り入れられ、地元の子供たちに語り継がれています。


宝篋印塔

境内の一隅にある宝篋印塔。これもまた、爆撃によって一部が削ぎ取られています。本来の大きさは右写真程のもので、成人男性の1.5倍程の高さがありますが、県内最古とされているこの塔は子供の背丈程の高さしかありません。南北朝時代の貴重なこの宝篋印塔も、戦争によって形を変えてしまったのです。


今も残る爆弾の破片

当院には当時、爆風で飛ばされた本堂の柱に刺さっていた爆弾の破片が今も大切に保管されております。

また、秋田文化出版社より発刊されている『はまなすはみた』の中に、当院の爆撃後の様子が絵と詩文で紹介されております。

…いまも雲祥院の本堂には
爆撃の破片の傷あとが残る
その墓地には破片でそぎとられた墓石が
たくさんある…

※「はまなすはみた」より一部抜粋


雲祥院の歴史

年代 出来事
1573-1592年 岩城館の城主、新城三郎安信の後室(雲祥院殿節巌祐真尼大姉)が、五山派の月嶺宗円に帰依して創建したと伝えられる。
福城寺の隣地下向に開創され、如意輪菩薩埵の古道場となった。
※開基と年代には異説があり、永禄年代とする説もある。
新城氏没落後、檀家数件の平僧地で、首座の密伝、祖盤、知禅、謙宗、泰獄、契州などによって継承されていった。
1818-1844年 蓮法妙座元という看院がいたともいわれ、契州は程なく昌東院に転住して拙溪智俊に嗣法したという。
幕末 大悲寺十六世修山慈音の法嗣徳慈徳が十二世となるに及んで念願の法地に昇格。
1872年 下新城岩城から飯島穀丁の現在地へ移転。
檀家の数も増加し、寺門も興隆していく。
1932年 火災焼失し、古記録などの殆どを失う。
1945年8月14日 土崎の日本石油の製油所がアメリカ軍のB29の爆撃にあい、その余波をもって県内でただ一ヶ寺の戦災寺院となる
1993年 本堂・庫裡が新築される。